「元年者」がハワイ上陸1871年1868年「日布修好通商条約」締結「官約移民」がハワイ上陸1898年1885年1924年アメリカがハワイ併合「真珠湾攻撃」で太平洋戦争勃発「新移民法」日本の無条件降伏、終戦1941年1945年日本からの海外渡航自由化1964年■ハワイと日本を結ぶ歴史・移民史No.11, 2022[ Spring Special Issue] 19世紀、砂糖産業が隆盛を極めていた当時のハワイ王国では、サトウキビ栽培のための労働力需要が高まっていた。また、ネイティブハワイアンの人口が減少していたことを踏まえて、外国からの移民を積極的に受け入れることを決定。日本からは1868年、153人の日本人が移民としてハワイの地を踏んだ。「元年者」と称されるその一団は〝日系ハワイ人″のルーツと考えられている。―ジフン・バンさんの半生を振り返っていただけますか。1971年に韓国で生まれ、日本に駐在していた父に帯同して小学校1年生の時に大阪府に移り住みました。その後、東京都内のインターナショナルスクールに入学して、初等・中等教育を受けました。在籍中の16歳の時、交換留学制度でイギリスに1年間留学をしました。この時期に自分の将来について悩んでいたのですが、留学先で課された一つの宿題が転機となりました。それは、「誰でもいい、プロフェッショナルと呼ばれる人にインタビューをしなさい」というものです。私がインタビューしたのは、ルネッサンス・ホテルの当時の総支配人でした。この時の経験が印象的で、「いつか自分 71年に「日布修好通商条約」が締結され日本とハワイは正式に国交を樹立した。その後、一時的に移民事業は中断されたが85年には「日布労働移民条約」が締結され、両国間で定められた条件のもと政府が斡旋した「官約移民」がハワイへと渡った。住居と医療が整備されており、当時の日本の日払い労働者の賃金と比較して高額だったことから移民を希望する日本人は少なくなかっのホテルを経営できないだろうか」という夢が芽生えました。その後、ホテルマンを目指すため、デンバー大学(米国・コロラド州)のホテル経営学科に進学しました。カリキュラム上、1,000時間の研修を経ないと卒業することができない仕組みになっていて、各国のホテルで修行の日々を過ごしていました。特に、米国ハワイ州にあるロイヤル・ハワイアンでの6カ月間の専属インターンシップには、強い想いと覚悟を持って臨みました。インターンシップ修了後には、「どこのホテルでも推薦状を書きますから、これからも頑張ってください」と、総支配人から激励の言葉を頂戴しました。大学卒業後、ロイヤル・ハワイアンに就職することができ、た。9年間で26回実施された官約移民の総数は男性が2万3,340人、女性が5,799人で、合計2万9,139人にも上った。 98年にハワイ王国がアメリカに併合され移民を取り巻く環境が変化した後も日本から多くの移民がハワイに入植した。サトウキビのほかにもコーヒーの生産に従事する者、契約労働を満了して都市部に移り住み商店を営む者など、日本人移民はハワイ現地での暮ら1995年にホテルマンとしてのキャリアをスタートさせることができました。ロイヤル・ハワイアンに就職した後は、シェラトン系列のさまざまなホテルで経験を積み重ねました。最終的には自分のホテルを持つことが夢でしたので、2006年にシェラトングループを離れ、翌07年に日本のホテル開発会社に入社しました。ところが、ちょうどリーマン・ショックが起き、世界規模の金融危機へと拡大し、その結果、私が関わっていたホテル建設計画が頓挫してしまいました。意のうち、10年には失再びハワイに戻り、違う形でホテル・観光業に携わることができないか、身の振り方を模索していたところ、幸運にもハレクラニから声をかけしをより発展させていった。1924年には、「新移民法」により移民が禁止され、日本に帰国をするとハワイへの再訪がかなわなくなるという事態に直面したことから、日本人はハワイでの定住を意識し始めた。 そうした中、80年前の1941年には、日本側の「真珠湾攻撃」を契機として太平洋戦争が勃発。民族間の亀裂が顕在化し、一部の日系人は拘束を受けるなど戦時中は厳しい状況に置かれたが、日系人志願兵による第442連隊の活躍もあていただきました。現在は、旧・ワイキキパークホテルを全面改装した「ハレプナ ワイキキ バイ ハレクラニ」の営業・マーケティング部長を務めています。―具体的なお仕事内容について教えていただけますか。営業・マーケティング部長として、ホテルの要である客室をどのように戦略的に販売していくのかを考えています。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大前のハワイでは、ホテルの客室稼働率が80〜85%という状況が毎日続いていました。ハワイにはたくさんのホテルがありますので、他のホテルとの差別化を図り、お客様の満足につながるアイデアを発想し、これを実現していく必要があります。リピーターとして当ホテルを利用していただけるお客様が増えるように考えることが私の主な仕事です。―ハレプナ ワイキキ バイ ハレクラニの特徴をお聞かせください。ハレプナ ワイキキ バイ ハレクラニは、客室が288部屋と比較的コンパクトなホテルです。その分、サービスの一つひとつが繊細であることが当ホテルの強みです。大き過ぎないサイズのホテルだからこそできる気配りやサービスがあるというのが持論です。例えば、お客様がふれるアメニティなどにラッピングをして、未開封の状態であることを分かりやすく示しています。こうり、終戦後、日系人は次第に信頼を取り戻し、52年には「新移民国籍法」が制定され日本人に帰化が許されるなど、ハワイにおける日系人の社会的環境は向上していった。64年の海外渡航自由化により、日本―ハワイ間での交流がさらに深まるようになった。 こうした長い歴史を経したお客様の潜在的なニーズに寄り添ったキメ細かいサービスこそが、私たちのホテルの特徴だと考えています。―ホテル・観光業界を目指す若い読者にアドバイスをお願いします。もともとハワイには、さまざまなバックグラウンドを持った人たちが多く、それゆえ若者は多様な文化・歴史・風習に慣れ親しんでいます。その意味では、ホテル・観光業界で働くにあたって、すでに大きなアドバンテージを手にしていると言えるのではないでしょうか。―母国語以外の言語を身につける秘訣などはありますか?日本語と韓国語は語ご彙いや語順が似ていますが、英語は大きく異なります。私自身の経験を振り返っても、英語のた現在、日本とハワイは友好的な関係を築いている。ハワイと姉妹都市提携を結ぶ日本の都道府県・自治体は少なくなく、日本文化の浸透、日系人の活躍等、親密性の高さが垣間見える。日本留学を希望するハワイの若者には、両者の発展を牽引するグローバル人材となることを期待したい。音を聞いて意味内容を類推することに初めはとても苦戦しました。ですから、ハワイ現地の英語話者の方が日本語を身につけようとするのであれば、最も重要なのはリスニングの力を鍛えることだと思います。リスニングの力を伸ばすためには、自分の趣味として楽しめることに没頭するのが望ましい。映画を観たり音楽を聴いたりして、日本語をずっと聴き続けることも効果的です。―今後の夢や目標について教えてください。来、ハワイで自分将のホテルを経営することが夢です。この夢を30年以上追い続けながら現在に至ります。また、最近はハワイで一流のホテルマンを育てたいという新しい夢もできました。みなさんにも、たくさんの夢や目標を持って欲しいと思います。●Profi le1971年生まれ、韓国出身。小学1年生の時に日本に移住し、東京都内のインターナショナルスクールに進む。米国・コロラド州のデンバー大学を卒業後、95年にロイヤル・ハワイアンにおいて、ホテルマンとしての第一歩を踏み出す。2007年、日本のホテル開発会社に転進。10年には再びハワイに戻り、現在はハレプナ ワイキキ バイ ハレクラニで営業・マーケティング部長を務める。 米国ハワイ州にあるホテル「ハレプナ ワイキキ バイ ハレクラニ」で営業・マーケティング部長として活躍するジフン・バンさんは、ホテル・観光業界で国際色豊かなビジネスキャリアを築いてきました。日本留学を考えるハワイの若者に向けてメッセージを送っていただきました。The Shinro Shimbun Hawaii Editionでで見る見る「移民」「移民」16ジフン・バンさん日本とハワイ、友好の歴史自分や他者について理解を深め、たくさんの夢を持とう!
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