ハワイ新聞12号
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■ハワイと日本を結ぶ歴史・移民史No.12, 2022[ Summer Special Issue ]「元年者」がハワイ上陸1871年1868年1885年「日布修好通商条約」締結「官約移民」がハワイ上陸「新移民法」1898年1924年アメリカがハワイ併合「真珠湾攻撃」で太平洋戦争勃発日本の無条件降伏、終戦1941年1964年1945年日本からの海外渡航自由化 19世紀、砂糖産業が隆盛を極めていた当時のハワイ王国では、サトウキビ栽培のための労働力需要が高まっていた。また、ネイティブハワイアンの人口が減少していたことを踏まえて、外国からの移民を積極的に受け入れることを決定。日本からは1868年、153人の日本人が移民としてハワイの地を踏んだ。「元年者」と称されるその一団は■日系ハワイ人■のルーツと考えられている。一日一日の時間を大切にして機会を逃さないで欲しい●Profi le1962年、ハワイ州ホノルル市生まれ。ハワイ大学在学中に、連邦通信委員会に認可され、ハワイ州の緊急放送を担当する24時間放送日本語ラジオ局「KZOO Radio」で、DJ・アナウンサーとして従事。92年、「KZOO Radio」の現・経営者であるデビッド・フルヤ氏と結婚。「KZOO Radio」のGeneral Manager(副社長)を務め、現在に至る。The Shinro Shimbun Hawaii Editionでで見る見る「移民」「移民」16ロビン・フルヤさん ハワイ州で24時間日本語によるラジオ放送を行い、現地の日系人らに愛されてきたラジオ局「KZOO Radio」は、来年10月18日に開局60周年を迎えます。General Manager(副社長)を務めるロビン・フルヤさんは、夫のデビッド・フルヤ氏と共に、その発展を支えてきました。「KZOO Radio」の約60年にわたる歴史を振り返りつつ、日本語学習者に向けたメッセージなどをロビンさんにお聞きしました。24歳の時、「桜まつり女王コンテスト」の上位に入賞したロビン・フルヤさん(左から二人目)―これまでのご経歴を振り返ってください。私は日系3世として、ハワイ州ホノルル市で生まれ育ちました。ハワイ大学に在籍していた20歳の時に、アルバイトとして24時間日本語放送を行うラジオ局「KZOO Radio」でDJ・アナウンサーの仕事をしていました。1992年に、KZOO Radioの現在の経営者であるデビッドと結婚して、いまはKZOO RadioのGeneral Manager(副社長)を務めています。そんな私ですが、この4月には、ラジオ局の60周年キックオフパーティを兼ねた60歳の還暦を祝うパーティを開催してもらいました。在ホノルル日本国総領事の青木豊氏やウクレレの達人のジェイク・シマブクロ氏やハーブ・ 71年に「日布修好通商条約」が締結され日本とハワイは正式に国交を樹立した。その後、一時的に移民事業は中断されたが85年には「日布労働移民条約」が締結され、両国間で定められた条件のもと政府が斡旋した「官約移民」がハワイへと渡った。住居と医療が整備されており、当時の日本の日払い労働者の賃金と比較して高額だったことから移民を希望する日本人は少なくなかっオオタ・ジュニア氏など、縁のある方々がたくさん祝福してくれました。―「KZOO Radio」の歩みを教えてください。KZOO Radioが放送を開始したのは1963年。ニュースや音楽などを自分たちの言葉で毎日届けたいというハワイ現地の日系人たちの想い入れが出発点でした。KZOO Radioは、日系人などのコミュニティにとって、とても大事なものになっています。これまでも、美空ひばりさんや伴淳三郎さんといった多くの著名な方々がスタジオを訪れ、インタビューを受けてくださいました。現在でも、日本語話者の方などに受け入れられ、日本語によるラジオ放送を続けており、来年10月18日には開局た。9年間で26回実施された官約移民の総数は男性が2万3,340人、女性が5,799人で、合計2万9,139人にも上った。 98年にハワイ王国がアメリカに併合され移民を取り巻く環境が変化した後も日本から多くの移民がハワイに入植した。サトウキビのほかにもコーヒーの生産に従事する者、契約労働を満了して都市部に移り住み商店を営む者など、日本人移民はハワイ現地での暮ら60周年を迎えます。―ポリシーを教えてください。ラジオ局としては、■Emergency■と ■Education■と■Entertainment■の三つの「E」を掲げています。「Emergency」は、ハリケーンや地震、火事など、緊急性の高い状況では、やはり情報がとても大事になるからです。「Education」については、ハワイ州知事選挙などの政治の情報はもちろん、現在では新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に起因する健康や医療に関する情報等が不可欠です。「Entertainment」については、人間には楽しみや憩いのために、音楽などが必要なためです。―「KZOO Radio」のしをより発展させていった。1924年には、「新移民法」により移民が禁止され、日本に帰国をするとハワイへの再訪がかなわなくなるという事態に直面したことから、日本人はハワイでの定住を意識し始めた。 そうした中、80年前の1941年には、日本側の「真珠湾攻撃」を契機として太平洋戦争が勃発。民族間の亀裂が顕在化し、一部の日系人は拘束を受けるなど戦時中は厳しい状況に置かれたが、日系人志願兵による第442連隊の活躍もあ放送で、印象深い思い出をご披露ください。DJ・アナウンサーとして担当したラジオ番組の放送中に、米軍勤務の方からリクエストされたラブソングを流したことがきっかけで、カップルが誕生したことがありました。ラジオ放送を通して、リスナーの生活に良い影響を与えたり何らかの働きかけができたりしたのなら、とても嬉しいことだと思いました。また、ハワイには、英語が流暢に話せず「KZOOがないと生活ができない」という方々が実際に少なくありません。General Managerとして、ハワイの日系人らや観光客のコミュニティのために、このラジオが将来もずっと続けていければ素敵ですよね。―自然災害等の緊急放送時に、気をつけていることをあげてください。英語と日本語のニュアンスの違いを考えるようにしています。ハワイ州から英語で発信される情報を、日本語に訳してラジオ放送として届ける時に、リスナーにとっていかに分かりやすく伝えるかということを意識しています。例えば、自然災害が発生した時に津波の危険があるため「電気を消してください」とだけ伝えると、リスナーが電気を消すために避難先から慌てて自宅に戻ってしまうことが少なくありません。この場合であれば、「既に避難した方はそのまま避難所に留まってください。もし、まだり、終戦後、日系人は次第に信頼を取り戻した。52年には「新移民国籍法」が制定され日本人に帰化が許されるなど、ハワイにおける日系人の社会的環境は向上していった。64年の海外渡航自由化により、日本―ハワイ間での交流がさらに深まるようになった。 こうした長い歴史を経自宅にいらっしゃる方は電気を消して避難してください」と、伝える必要があります。そうです、リスナーの性質を理解し、効果的なコミュニケーションをしなければ人々の命を救えないと理解して、情報を発信することが大切なのです。つて、ハワイで大か地震があった時に、日本からも多くの電話が殺到して、回線が著しく混み合ってしまったことがありました。そこで、私たちが緊急情報を日本にいる方々に伝えると、ハワイの電話回線の混雑が緩和したこともありました。―日本語学習に効果的なオススメの「KZOO Radio」の番組を教えてください。KZOO Radioの長寿番組「もしもし電話応答」では、生放送の最中に、リスナーの人からの電話を直接スタジオにつなげるコーナーがあた現在、日本とハワイは友好的な関係を築いている。ハワイと姉妹都市提携を結ぶ日本の都道府県・自治体は少なくなく、日本文化の浸透、日系人の活躍等、親密性の高さが垣間見える。日本留学を希望するハワイの若者には、両者の発展を牽引するグローバル人材となることを期待したい。ります。その企画では、ハワイ現地のリスナーや世界中の日本のコミュニティに属するリスナーがリアルタイムで電話をかけてきます。日本語学習者の方は「もしもし電話応答」を聴くことで、イキイキとした日本語での会話を学ぶことができるのではないでしょうか。―訪日を夢見て、ハワイで日本語を学んでいる読者に向けて、メッセージをお願いします。言語は若い時に勉強したほうが良いように思います。仮に結婚したり子どもが生まれたりすると、勉強を続けることが難しくなる可能性があります。COVID-19のパンデミックでほとんどの人が感じたのは、一日一日の時間が大事だということです。いつかまた同様のことが起きないとも限りませんので、勉強でも旅行でも何でも、機会がある時に夢や目標を追いかけてください。ロビン・フルヤさん日本とハワイ、友好の歴史

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