進路新聞ハワイ版13号
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日本語教育をより楽しいものにできれば素敵ですよね。たくさんの生徒に日本語を学んでもらい、日本に行って欲しいというのが現在の夢です。言葉だけではなく、盆踊りや日本料理、茶道、生け花、習字など、日本の文化を授業に取り入れ、楽しくしていきたいと思います。卒業した後も日本語を学び続ける生徒が増えてくれれば。「元年者」がハワイ上陸1871年1868年「日布修好通商条約」締結「官約移民」がハワイ上陸1898年1885年1924年アメリカがハワイ併合「真珠湾攻撃」で太平洋戦争勃発「新移民法」日本の無条件降伏、終戦1941年1945年日本からの海外渡航自由化1964年■ハワイと日本を結ぶ歴史・移民史No.13, 2023[ Spring Special Issue ]The Shinro Shimbun Hawaii Editionでで見る見る「移民」「移民」●Profi le1977年、静岡県藤枝市生まれ。96年に高校卒業後、静岡大学進学。教育学部で英語教育を学び、在学中のイギリス留学を契機に英語教師を目指す。卒業後は英語教師として日本の高校に勤務。結婚を機にハワイに移住し、2007年、ハワイパシフィック大学・大学院に入学・卒業。現在はハワイのパールシティ高校で日本語教師として活躍中。 71年に「日布修好通商条約」が締結され日本とハワイは正式に国交を樹立した。その後、一時的に移民事業は中断されたが85年には「日布労働移民条約」が締結され、両国間で定められた条件のもと政府が斡旋した「官約移民」がハワイへと渡った。住居と医療が整備されており、当時の日本の日払い労働者の賃金と比較して高額だったことから移民を希望する日本人は少なくなかっ夫と出会い、結婚しました。それを機に退職して、ハワイに移住したのがきっかけです。ハワイには日本語教育の需要がありますし、私も外国語を教える楽しさを忘れられなかったので、今度は日本語教師を志しました。――現在のお仕事内容について教えてください。パールシティ高校で生徒たちに日本語を教えています。平仮名から始めて、自己紹介やていねい語、歴史や文化などを教えています。漫画などから日本語に興味を持つ生徒も少なくありません。――日本語の教師になるまでにどのようなことを学びましたか?まずはハワイパシフィック大学・大学た。9年間で26回実施された官約移民の総数は男性が2万3,340人、女性が5,799人で、合計2万9,139人にも上った。 98年にハワイ王国がアメリカに併合され移民を取り巻く環境が変化した後も日本から多くの移民がハワイに入植した。サトウキビのほかにもコーヒーの生産に従事する者、契約労働を満了して都市部に移り住み商店を営む者など、日本人移民はハワイ現地での暮ら院(アメリカ・ハワイ州)に入学し、日本語の教員免許取得を目指しました。それから、小学校や中学校、高校、大学に足を運び、ボランティア活動やアルバイトを経験しました。中学から高校、高校から大学へと環境が変わると、生徒の心情にどのような変化があるのかを学んだことで、生徒との接し方や授業のペースを工夫することができています。ネットワークづくりにも注力しました。日本語を教えるだけではなく、「たくさんのことができる先生」になるのが目標でしたので、多様な人との出会いを大切にしました。航空会社で働く人と知り合いになって、学校に来てもらったこともあります。ネットワークを広げ、それを生しをより発展させていった。1924年には、「新移民法」により移民が禁止され、日本に帰国をするとハワイへの再訪がかなわなくなるという事態に直面したことから、日本人はハワイでの定住を意識し始めた。 そうした中、80年前の1941年には、日本側の「真珠湾攻撃」を契機として太平洋戦争が勃発。民族間の亀裂が顕在化し、一部の日系人は拘束を受けるなど戦時中は厳しい状況に置かれたが、日系人志願兵による第442連隊の活躍もあ徒に還元できるよう、いまも努力しています。――お仕事の魅力はどこにありますか?生徒が「漫画を読めるようになった」「日本でヒットしている歌が歌えるようになった」と、楽しそうに報告してくれると非常にやりがいを感じます。日本に留学をしたいという生徒が増えてきていることも嬉しく思います。4年間を通じて生徒の成長を間近で見ることができる点も、このお仕事の魅力です。平仮名も分からず緊張していた生徒が、少しずつではあっても自信をつけて自分の意見を日本語で話している姿を見ると、私も頑張ろうと思います。――大変なところをあげてください。授業を離れて生徒が悩みを相談してくれることがあります。そのような時には英語を使いますが、言語の壁を意識してしまうことも少なくありません。誤った表現で生徒を傷つけてしまっていないか、伝えたいことがきちんと伝わっているのか、繊細な話ほど慎重になります。こうした場面でいきてくるのが日頃のコミュニケーションです。信頼関係を構築することで「先生はこれを言いたいんだな」と、伝わって欲しいと思っています。――パールシティ高校は日本の学校との交流が盛んだと聞きました。茨城県立水戸商業高等学校(茨城県水り、終戦後、日系人は次第に信頼を取り戻した。52年には「新移民国籍法」が制定され日本人に帰化が許されるなど、ハワイにおける日系人の社会的環境は向上していった。64年の海外渡航自由化により、日本―ハワイ間での交流がさらに深まるようになった。 こうした長い歴史を経――交流後の生徒の反応はいかがでしたか?初めのうちは緊張していますが、終わると「短かった」「もう一回やりたい」という声を耳にします。オンラインで簡単につながることができ、同世代の日本人と話す良い経験となっているようです。SNSを通じて交流を続けている生徒も少なくありません。「お誕生日のお祝いメッセージが届いた」「オンラインゲームを一緒に楽しんだ」と、嬉しそうに報告してくれる生徒もいます。――今後の目標を教えてください。 日本の大学在学中にイギリス留学を経験したことで、外国語を学ぶ素晴らしさを知ったというコジマ久実さん。外国語を楽しく教えることで生徒に広い視野を持って欲しいという思いを胸に、現在はパールシティ高校(アメリカ・ハワイ州)で日本語教師として教鞭を取っています。 コジマさんに、現在のお仕事内容ややりがい、大学時代の思い出などについてお話をうかがいました。戸市)や越生町立越生中学校(埼玉県入間郡)とオンライン交流会を行っています。時差を考慮した30分という限られた時間ではありますが、ハワイの生徒は日本語を、日本の生徒は英語を使い、お互いの自己紹介や学校生活について質問し合っていきます。た現在、日本とハワイは友好的な関係を築いている。ハワイと姉妹都市提携を結ぶ日本の都道府県・自治体は少なくなく、日本文化の浸透、日系人の活躍等、親密性の高さが垣間見える。日本留学を希望するハワイの若者には、両者の発展を牽引するグローバル人材となることを期待したい。――日本留学を考えているハワイの高校生に向けてメッセージをお願いします。ハワイで日本語を修得すると、仕事の幅が一気に広がります。将来の選択肢が広がり、日本への留学もしやすくなるため、国際人になる近道です。日本に行きたいと思ったらとにかく行動してみましょう。そのためにも、まずは留学フェアに参加するのも一つの方法です。有益な情報を知ることができます。ぜひ参加してみてください。日本語の楽しさを生徒に伝え続ける結婚を機に、新たな地で日本語教師を目指す 19世紀、砂糖産業が隆盛を極めていた当時のハワイ王国では、サトウキビ栽培のための労働力需要が高まっていた。また、ネイティブハワイアンの人口が減少していたことを踏まえて、外国からの移民を積極的に受け入れることを決定。日本からは1868年、153人の日本人が移民としてハワイの地を踏んだ。「元年者」と称されるその一団は■日系ハワイ人■のルーツと考えられている。最も大きなやりがいは生徒が日本語を楽しんでくれること――これまでのご経歴について教えてください。私は静岡県で生まれ育ち、静岡大学(静岡市)教育学部に入学しました。英語を学ぶため、3年次にはイギリスに留学し、さまざまな国の人々と出会いながらヨーロッパ中を旅して回りました。英語を勉強することで視野が広がり、大きな羽がはえたような気がしました。その楽しさを伝えたいと思い、英語教師を目指す決心をしました。大学卒業後は夢をかなえ、日本の高校で生徒たちに英語を教えていました。――どのような経緯でハワイで働くことになったのでしょうか?日本の高校に勤務していた時、外国語の指導助手(ALT)として同じ学校に勤めていた現在の16コジマ 久実さん日本とハワイ、友好の歴史

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