「元年者」がハワイ上陸1871年1868年「日布修好通商条約」締結「官約移民」がハワイ上陸1898年1924年1885年アメリカがハワイ併合「真珠湾攻撃」で太平洋戦争勃発「新移民法」日本の無条件降伏、終戦1941年1945年日本からの海外渡航自由化1964年■ハワイと日本を結ぶ歴史・移民史No.14, 2023[ Summer Special Issue ]●Profi le東京都出身。國學院大學卒業後、東北放送株式会社にアナウンサー職として入社。約3年間勤務した後、フリーランスとして約12年間テレビやラジオなどの仕事に携わる。その後、海外で日本語教師の仕事を始め、2001年ハワイに移住。日本語教師としてハワイ各地の学校で日本語を教える。現在はカイザー高等学校で生徒たちに日本語を教えている。カイザー高校で日本語を楽しく学ぶ生徒たち 71年に「日布修好通商条約」が締結され日本とハワイは正式に国交を樹立した。その後、一時的に移民事業は中断されたが、85年には「日布労働移民条約」が締結され、両国間で定められた条件のもと政府が斡旋した「官約移民」がハワイへと渡った。住居と医療が整備されており、当時の日本の日払い労働者の賃金と比較して高額だったことから移民を希望する日本人は少なくなかっかお教えください。アナウンサーの仕事はとても楽しくやりがいもありました。しかし、日本では女性アナウンサーは男性のサポート的な役割が多く、見た目も重要で常に若さが求められる職業でした。よほど実績を積んだニュースキャスターにならない限り、一生続けられる仕事ではないとも考えていました。もともと職業柄、日本語を読んだり、書いたり、話したりと常に日本語に接してきましたので、日本語そのものにも興味がありました。自分が好きなことで、なおかつこれまでの経験を活かせる仕事は何かと考えた時に真っ先に浮かんだのが日本語教師でした。当時は大好きなバリ島で、日本語教師として働た。9年間で26回実施された官約移民の総数は男性が2万3,340人、女性が5,799人で、合計2万9,139人にも上った。 98年にハワイ王国がアメリカに併合され、移民を取り巻く環境が変化した後も日本から多くの移民がハワイに入植した。サトウキビのほかにもコーヒーの生産に従事する者、契約労働を満了して都市部に移り住み商店を営む者など、日本人移民はハワイ現地でのきながら暮らすのが夢でした。結局はハワイに落ち着きましたが(笑)。1990年代中頃は日本語教師がちょっとしたブームとなり、日本語教師とベトナム人の生徒を主人公にした「ドク」というテレビドラマが放送されるほどでした。――その後のキャリアについて教えてください。アナウンサーとしてのキャリアをひと区切りさせた後は、青年海外協力隊に入り、マーシャル諸島短期大学(マーシャル諸島共和国・マジュロ)で日本語教師として働き始めました。そこで現在の夫であるアメリカ人の男性教員と出会い、国際結婚をしました。その後、夫の仕事の都合でアラブ首長国連邦に暮らしをより発展させていった。1924年には、「新移民法」により移民が禁止され、日本に帰国をするとハワイへの再訪がかなわなくなるという事態に直面したことから、日本人はハワイでの定住を意識し始めた。 そうした中、80年前の1941年には、日本側の「真珠湾攻撃」を契機として太平洋戦争が勃発。民族間の亀裂が顕在化し、一部の日系人は拘束を受けるなど戦時中は厳しい状況に置かれたが、日系人志願兵による第442連隊の活躍もあ行くことになり、2001年からはハワイに移り住んで現在に至ります。ハワイに来てからは子どもにも恵まれ、子育てを頑張っていました。子育てが少し落ち着いた2006年からはオンラインスクールのマイロンビートンプソンアカデミーで日本語教師としてのキャリアを再びスタートさせました。新型コロナウイルス感染症が2019年以降に世界各国に広まり、オンライン授業が急速に普及しましたが、マイロンビートンプソンアカデミーでオンライン授業を経験していたため、オンライン授業を余儀なくされた時もスムーズに対応することができました。――ハワイでは多くの学校で教えていたとうかがいました。アイエア高校やミリラニ高校、ニウバレー中学校、マッキンリーコミュニティースクールなどで教えた経験があり、現在はカイザー高校で生徒に日本語を教えています。――カイザー高校では、どのような日本語の授業を展開されていますか?テキストを使ったり、ウェブサイトで日本のニュースを題材にしたりした授業を行っています。カイザー高校では、日本語の授業が必修となっているため、日本語に興味のある生徒もいれば、あまり興味のない者もいます。そのため、単に日本語の文字や文法だけを教えても飽きてしまいますので、生徒たちがいかに日本語や日本に興味を持ってもらえるか、日本り、終戦後、日系人は次第に信頼を取り戻した。52年には「新移民国籍法」が制定され、日本人に帰化が許されるなどハワイにおける日系人の社会的環境は向上していった。64年の海外渡航自由化により、日本―ハワイ間での交流がさらに深まるようになった。 こうした長い歴史を経――外国籍の人が日本語を学ぶ上で、漢字が大変であるとよく聞きます。平仮名とカタカナは46文字ずつですので比較的覚えやすいのですが、漢字は常用漢字だけで2,000文字以上あると言われていますので、すべてを教えるのは難しく、また学ぶのはさらに困難だと思います。そのため、生徒たちには日々の生活の中で漢字を見つけたら、その漢字を撮影してどのような意味なのかを想像させる取り組みを実践しています。また、漢字は成り立ちに由来がありますので、山や川、月など、イラストを用いながら説明すると、より深く理解できて覚えやすいということも伝えるようにしています。――今後の目標についてお聞かせください。日本語教師の仕事を通 大学を卒業後、東北放送株式会社(本社・仙台市)に入社し、アナウンサーとしてキャリアをスタートさせた、えこ バージェスさん。現在はカイザー高等学校(アメリカ・ハワイ州)で日本語教師として生徒たちに日本語を教えています。 えこ バージェスさんを訪ね、これまでの人生ストーリーをおうかがいすると共に、ハワイの若者たちに向けて応援メッセージを送っていただきました。のアニメーションや文化なども取り入れながら授業を展開しています。た現在、日本とハワイは友好的な関係を築いている。ハワイと姉妹都市提携を結ぶ日本の都道府県・自治体は少なくなく、日本文化の浸透、日系人の活躍等、親密性の高さが垣間見える。日本留学を希望するハワイの若者には、両者の発展を牽引するグローバル人材となることを期待したい。して、一人でも多くの生徒に日本を好きになってもらうことが目標です。特にハワイは日本との関わりも深く、毎年多くの日本人観光客が訪れますので、日本語ができるだけで仕事の選択肢はグッと広がります。今後も日本語教師として、日本とハワイの架け橋の一助となれるように頑張っていくつもりです。――ハワイの若者に向けてメッセージをお願いします。日本語や日本に興味のある人は、日本のテレビや映画を見たり、日本人の友人を作ったりしてみてください。机上ではできない経験や体験をしてみることによって、日本語の習得は飛躍的に早くなるはずです。また、機会があればぜひ日本を訪れてみてください。日本にはたくさんの魅力がありますので、実際に行ってみることによって新しい気づきや発見がきっとあるはずです。The Shinro Shimbun Hawaii Editionでで見る見る「移民」「移民」マーシャル諸島共和国の綺麗な海をバックに映る恵子■えこ■バージェスさん 19世紀、砂糖産業が隆盛を極めていた当時のハワイ王国では、サトウキビ栽培のための労働力需要が高まっていた。また、ネイティブハワイアンの人口が減少していたことを踏まえて、外国からの移民を積極的に受け入れることを決定。日本からは1868年、153人の日本人が移民としてハワイの地を踏んだ。「元年者」と称されるその一団は■日系ハワイ人■のルーツと考えられている。アナウンサー時代に培った経験を日本語教師に活かして充実の日々――えこ バージェスさんのご経歴について教えてください。私は東京都で育ち、高校卒業後は國學院大學(東京都渋谷区)に進学をしました。もともとテレビで活躍しているアナウンサーに憧れを抱いていたこともあり、就職活動ではアナウンサー職志望で活動し、幸運にも東北放送株式会社から内定をいただくことができました。入社してから3年間ほど東北放送でアナウンサーを務め、その後フリーアナウンサーに転身して約12年間テレビやラジオなどの仕事に携わっていました。――現在は日本語教師としてご活躍されていますが、どのような経緯なの14恵子■えこ■バージェスさん日本とハワイ、友好の歴史
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