ShinroShimbun_HawaiiEdition_Vol.15
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■ハワイと日本を結ぶ歴史・移民史No.15, 2024[ Spring Special Issue ]「元年者」がハワイ上陸1871年1868年「日布修好通商条約」締結「官約移民」がハワイ上陸1898年1924年1885年アメリカがハワイ併合「真珠湾攻撃」で太平洋戦争勃発「新移民法」日本の無条件降伏、終戦1941年1945年日本からの海外渡航自由化1964年埼玉県の細田学園高等学校の生徒がナナクリ高等学校を訪問し、国際交流を行った 71年に「日布修好通商条約」が締結され日本とハワイは正式に国交を樹立した。その後、一時的に移民事業は中断されたが、85年には「日布労働移民条約」が締結され、両国間で定められた条件のもと政府が斡旋した「官約移民」がハワイへと渡った。住居と医療が整備されており、当時の日本の日払い労働者の賃金と比較して高額だったことから移民を希望する日本人は少なくなかっ幸運にも選考を通過してプログラムに参加させていただけることになりました。その時は東京都や新潟県などを訪問しました。特に新潟県では参加者全員でスキーをしたことが良い思い出としていまも心に残っています。ハワイは温暖な気候で雪は降りませんから、雪を初めて見た時はとても感動しました。また、スキーを楽しんだ後はみんなで美味しい日本食を食べ、その後温泉に入りました。ハワイではシャワーで済ますことが一般的ですので、大きな浴槽でリラックスすることができてとても気持ち良かったです。特に露天風呂では小雪が舞っており、とても風情を感じました。た。9年間で26回実施された官約移民の総数は男性が2万3,340人、女性が5,799人で、合計2万9,139人にも上った。 98年にハワイ王国がアメリカに併合され、移民を取り巻く環境が変化した後も日本から多くの移民がハワイに入植した。サトウキビのほかにもコーヒーの生産に従事する者、契約労働を満了して都市部に移り住み商店を営む者など、日本人移民はハワイ現地での̶̶その後の経歴についても教えてください。その後は地元の中学校、高校を卒業してハワイ大学(米国・ハワイ州)に進学しました。ハワイ大学では教育学を専攻しており、入学当初は英語の教員になろうと考えていました。しかし、勉学に励んでいるうちに「英語の教員は少し違うかもしれない」と感じるようになり、小学生の時に参加したKONISHIKI KIDS PROGRAMの楽しかった思い出が蘇り、方向転換をして日本語を教える教員になろうと決心しました。日本語を教えるには、まずは自分自身が日本語を十分に理解していなくてはいけません。そのため、日本語をしっかり勉強したいと考えて大学の暮らしをより発展させていった。1924年には、「新移民法」により移民が禁止され、日本に帰国をするとハワイへの再訪がかなわなくなるという事態に直面したことから、日本人はハワイでの定住を意識し始めた。 そうした中、80年前の1941年には、日本側の「真珠湾攻撃」を契機として太平洋戦争が勃発。民族間の亀裂が顕在化し、一部の日系人は拘束を受けるなど戦時中は厳しい状況に置かれたが、日系人志願兵による第442連隊の活躍もあ交換留学制度を活用し、上智大学(東京都千代田区)に1年間留学をしました。周りの留学生の中にはアルバイトをしている人も少なくありませんでしたが、私は大学の授業に集中して勉学に励んでいました。留学中は寮で暮らしていたため、周りには大勢の留学生がいましたが、アメリカやブラジル、ポーランドといったさまざまな国々から来ていましたので、お互いに勉強している日本語でコミュニケーションを図っていくうちに、少しずつ日本語力を身につけることができました。̶̶現在はナナクリ高等学校で日本語を教えられています。私はナナクリ高校の卒業生ということもあり、ご縁もあって母校の教員として就職することができました。ナナクリ高校は比較的小規模な学校で、現在は日本語の授業を選択している生徒約80人に対して日本語を教えています。私自身、1年間の日本留学を経験しましたが、教科書を読んで単語や文法を学ぶよりも、日常生活の中で積極的に日本語を使いながら実践的に学んだほうが日本語力の向上は早いと感じました。ですから、授業ではなるべく講義形式の一方的なスタイルにするのではなく、コミュニケーションや体験を重視した授業を展開するように心がけています。ナナクリ高校で日本語を学んだ生徒が、一人でり、終戦後、日系人は次第に信頼を取り戻した。52年には「新移民国籍法」が制定され、日本人に帰化が許されるなどハワイにおける日系人の社会的環境は向上していった。64年の海外渡航自由化により、日本―ハワイ間での交流がさらに深まるようになった。 こうした長い歴史を経̶̶ハワイで日本語を学ぶ若者たちに向けてメッセージをお願いします。先日、ハワイの自動車ショップで店員の言葉があまり理解できていない日本人の方をお見かけしました。話を聞いてみると、車のバッテリーを返却したかったようなのですが、うまく英語が話せずに困っていました。そこで、私が通訳としてサポートに入ったところ、とても感謝されるという出来事がありました。ハワイには毎年たくさんの日本人観光客が来ますので、ハワイで日本語と英語の両方の言語ができるというのは大きな強みになります。「日本語をより深く学んでみたい」「日本とハワイの架け橋と 日本の相撲界で活躍した元力士・小錦氏が主催する「KONISHIKI KIDS PROGRAM」に参加することで日本訪問が実現して日本をより好きになったというKele Roberts先生。現在はナナクリ高等学校(米国・ハワイ州)で生徒たちに日本語を教えています。 Kele先生を訪ね、これまでの人生ストーリーをおうかがいすると共に、日本留学に興味のあるハワイの若者に向けて応援メッセージを送っていただきました。も多く日本語を使った仕事や日本と関わりのある仕事に就いてもらえたら、教員としてはとても嬉しく思います。た現在、日本とハワイは友好的な関係を築いている。ハワイと姉妹都市提携を結ぶ日本の都道府県・自治体は少なくなく、日本文化の浸透、日系人の活躍等、親密性の高さが垣間見える。日本留学を希望するハワイの若者には、両者の発展を牽引するグローバル人材となることを期待したい。なる仕事に就いてみたい」という熱い思いを持っているハワイの若者のみなさんは、ぜひ勇気を出して日本に行ってみてください。日本語学校で日本語をしっかり学んだ後に、日本の大学や短期大学、専門学校等に進学して高い専門性を身につけて国際社会で活躍している先輩方はたくさんいます。また、「日本に少し興味がある」という方であれば、旅行で日本を訪れてみるのも良いでしょう。私は決してあきらめることなく、地道に勉強し続けたことで日本語をひと通りマスターし、現在は仕事として日本語を教えられるまでに成長することができました。あきらめなければ夢はきっとかなうはずだと思いますので、日本留学に少しでも興味・関心のある人は、積極的にチャレンジしてみてください。The Shinro Shimbun Hawaii Editionでで見る見る「移民」「移民」東京観光に際して、パナソニック汐留美術館を訪問して楽しむKele先生●●左 19世紀、砂糖産業が隆盛を極めていた当時のハワイ王国では、サトウキビ栽培のための労働力需要が高まっていた。また、ネイティブハワイアンの人口が減少していたことを踏まえて、外国からの移民を積極的に受け入れることを決定。日本からは1868年、153人の日本人が移民としてハワイの地を踏んだ。「元年者」と称されるその一団は■日系ハワイ人■のルーツと考えられている。夢はあきらめなければきっとかなう! 勇気を出してチャレンジしてみて!!̶̶Kele先生が日本に興味を持ったきっかけについて教えてください。私はオアフ島の西海岸にあるナナクリ地区で生まれ育ちました。日本で大活躍した元大相撲・小錦関がハワイのホノルル市出身ということもあって、小錦氏がハワイの子どもたちを日本に招待して日本の伝統文化などを体験させる「KONISHIKI KIDS PROGRAM」に10歳の時に参加しました。そのプログラムは人気があり、参加するには事前の選考がありましたが、「日本に実際に行って、伝統文化を体験したりハワイでは食べられないような日本食を食べたりしてみたいと思っています」といった志望理由が審査員の方の心に響いたのか、12●Profi le1990年5月8日生まれ、米国ハワイ州出身。ハワイのオアフ島出身で、日本の相撲界で活躍した元力士「小錦」さんが主催する「KONISHIKI KIDS PROGRAM」に10歳の時に参加して来日し、日本の素晴らしさに魅了される。ハワイ大学在学中は交換留学制度を活用して上智大学に1年間留学し、日本語を本格的に学習。現在はナナクリ高等学校で生徒たちに日本語を教えている。Kele Roberts先生日本とハワイ、友好の歴史

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