日本語は難しいという印象を抱いている人が少なくありません。難しいのは間違いありませんが、好きなことであれば、頑張れるのではないかと思います。日本の好きな音楽を聴いたり、本を読んだり、テレビを見たりして、自分の興味のあるものから日本語を学んでいくことをおすすめします。例えば、シンプルな読み書きは苦手でも好きな食べ物に関する漢字だったら筆記できるというように、自分の好きなことから学びを深めていくとベターかもしれません。また、これは、日本語に限りませんが、語学を学習する上で大切なのがモチベーションです。「漫画を日本語で読んで理解できるようになりたい!」「日本語を喋っている憧れの人と日本語で話した!」など、目標を持って取り組むことが日本語の上達につながると思います。日本語の教員として、ハワイのナナクリ高等学校やカラニ高等学校で勤務し、数多くの生徒に日本語を教えてきました。現在は、ワイパフ高等学校で教員をしています。ナナクリ高校の時は、人数も少なく小さなクラスだったため、さまざまなアクティビティを行うことができ、生徒たちと楽しみながら過ごした思い出があります。カラニ高校の時は、日系の生徒が非常に多く、毎年160人くらいが日本語を学んでいました。いまのワイパフ高校は、フィリピン人が多くなっています。生徒が日本語を学ぶ理由は実にさまざまです。日系人が多かったカラニ高校は自分のルーツの言語を話したい、家族と日本語で話したいという生徒がいました。現在のワイパフ高校は、フィリピン人生徒が多いこともあって、日本語や日本文化に興味が湧き日本語を勉強し始めたというケースが多い印象があります。日本の漫画やアニ大学に進学した時点では、どうしても日本語の教員になるんだという強い意志を持っていたわけではありませんでした。漠然と教員になりたいと思ってはいましたが、それと同じくらい数学も好きでしたから、将来どのような道に進むか悩んでいた時期もありました。とはいえ、やはり日本語が好きだったんでしょう、最終的には日本語教員を■ハワイと日本を結ぶ歴史・移民史No.16, 2024[ Summer Special Issue ]「元年者」がハワイ上陸1871年1868年「日布修好通商条約」締結「官約移民」がハワイ上陸1898年1885年1924年アメリカがハワイ併合「真珠湾攻撃」で太平洋戦争勃発「新移民法」日本の無条件降伏、終戦1941年1945年日本からの海外渡航自由化1964年The Shinro Shimbun Hawaii Editionでで見る見る「移民」「移民」交換留学でホノルル市の姉妹都市である長岡市(新潟県)を初めて訪れる生徒と共に雪を楽しんだナンシー・キシ・チャー先生●右●Profi leグアム出身。2歳の時にハワイに渡り、日系の家族のもとで育つ。小学4年次から中学校、およびワイアケア高等学校において日本語を学ぶ。進学先のハワイ大学でも日本語を専攻し、在学中は日本にも一年間留学。その後日本語教員として、ハワイ現地のナナクリ高等学校、カラニ高等学校を経て現在はワイパフ高等学校に勤務。これまで数多くの生徒に日本語を教えてきた。12―小さい頃から日本語とふれあう機会に恵まれていたとうかがいました。私は、グアムで生まれ、2歳の時にハワイに渡りました。父方の祖父母は和歌山県出身で、私は日系3世です。母は東京出身で、幼少期から母方の親戚に日本語で話しかけられて育ちました。小学生の夏休み期間中に、何度か日本を訪れたことがあります。英語と日本語が半々の生活でしたが、結果的に、小学生時代から対話はほとんどが英語となりました。り返ると、日本語の振勉強に本格的に取り組み始めたのは、小学校―ハワイ大学では、どのような授業を受けたのでしょうか?―ハワイ大学に在学中、日本に留学したとうかがいました。―日本語の教員を目指したきっかけを教えてください。―これまで多くの生徒のみなさんに日本語を教えてきました。―ハワイで日本語を学ぶ若者に向けてメッセージをお願いします。 日系の家族のもとで過ごし幼少期より日本語を身近に感じる環境で育ってきたナンシー・キシ・チャー先生。現在は、ワイパフ高等学校(アメリカ合衆国・ハワイ州)で生徒たちに日本語を教えています。 ナンシー・キシ・チャー先生に、これまでの半生を振り返っていただき、大学時代の思い出と共に、日本語学習のポイントを尋ねました。甲南大学に留学していた時にクラスメイトと訪れた京都でのひとコマ(●右から4人目) 71年に「日布修好通商条約」が締結され日本とハワイは正式に国交を樹立した。その後、一時的に移民事業は中断されたが、85年には「日布労働移民条約」が締結され、両国間で定められた条件のもと政府が斡旋した「官約移民」がハワイへと渡った。住居と医療が整備されており、当時の日本の日払い労働者の賃金と比較して高額だったことから移民を希望する日本人は少なくなかっ4年生からでした。以降、中学生までは、父が申し込んだアフタースクールプログラムで日本語を習っていました。中学卒業後に進んだワイアケア高等学校(アメリカ合衆国・ハワイ州)の2年次以降4年次まで、日本語のクラスを選択し、さらに日本語の勉強に力を注いでいました。校卒業後はハワイ大高学(アメリカ合衆国・ハワイ州)に進学し、日本語を専攻しました。そのため、大学では日本のた。9年間で26回実施された官約移民の総数は男性が2万3,340人、女性が5,799人で、合計2万9,139人にも上った。 98年にハワイ王国がアメリカに併合され、移民を取り巻く環境が変化した後も日本から多くの移民がハワイに入植した。サトウキビのほかにもコーヒーの生産に従事する者、契約労働を満了して都市部に移り住み商店を営む者など、日本人移民はハワイ現地での文化にふれる機会も多く、日本文学の授業等も履修していました。英語に翻訳されてはいましたが、多くの日本の文学作品に出合うことができました。例えば、紫式部の『源氏物語』や太宰治の『人間失格』、川端康成の『雪国』などを夢中になって読み漁りました。『源氏物語』はラブストーリーでしたので、想像していたよりも楽しむことができました。『人間失格』は難解な作品ですが、日本人の心に少しふれることができたように思います。また、日本に行った際には夏目漱石の『こころ』も熟読しました。読むのはなかなか大変でしたが、非常に感銘を受けました。ワイ大学のプログラムで3年次に一年間暮らしをより発展させていった。1924年には、「新移民法」により移民が禁止され、日本に帰国をす 19世紀、砂糖産業がるとハワイへの再訪がか隆盛を極めていた当時のなわなくなるという事態ハワイ王国では、サトウに直面したことから、日キビ栽培のための労働力本人はハワイでの定住を需要が高まっていた。ま意識し始めた。た、ネイティブハワイア そうした中、80年前ンの人口が減少していたの1941年には、日本側ことを踏まえて、外国かの「真珠湾攻撃」を契機らの移民を積極的に受けとして太平洋戦争が勃入れることを決定。日本発。民族間の亀裂が顕在からは1868年、153人の化し、一部の日系人は拘日本人が移民としてハワ束を受けるなど戦時中はイの地を踏んだ。「元年厳しい状況に置かれた者」と称されるその一団が、日系人志願兵によるは■日系ハワイ人■のルー第442連隊の活躍もあツと考えられている。好きや興味を原動力に「日本語力」を高めていこう日本に留学をしました。留学先は甲南大学(神戸市)です。甲南大では主に、日本語の勉強に励んでいました。午前中は日本語のクラスを受講して、午後はほとんど英語で日本語を学修するというスタイルでした。もちろん、さらに勉強がしたいという場合にはほかの普通の授業も履修することが可能なシステムでしたが、思いのほか、両立するのが大変そうな印象でしたので、日本語を専門として勉強していました。幼少期には、たびたび東京を訪れていましたが、留学先の甲南大は神戸にキャンパスがありました。日本といっても神戸は雰囲気や地域文化なども大きく異なっており、とても新鮮に映りました。また、この時は家族と初めて離れての日本訪問でしたので大きな刺激となりました。留学は、ホームステイを活用しました。いまでもホームステイ先のご家族と連絡を取り合うほど関係を深めることができました。り、終戦後、日系人は次第に信頼を取り戻した。52年には「新移民国籍法」が制定され、日本人に帰化が許されるなどハワイにおける日系人の社会的環境は向上していった。64年の海外渡航自由化により、日本―ハワイ間での交流がさらに深まるようになった。 こうした長い歴史を経目指すことを決めました。た現在、日本とハワイは友好的な関係を築いている。ハワイと姉妹都市提携を結ぶ日本の都道府県・自治体は少なくなく、日本文化の浸透、日系人の活躍等、親密性の高さが垣間見える。日本留学を希望するハワイの若者には、両者の発展を牽引するグローバル人材となることを期待したい。メーション、音楽、ゲーム、芸能界などに興味があるという生徒が大勢います。ナンシー・キシ・チャー先生日本とハワイ、友好の歴史ハ
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