ShinroShimbun_HawaiiEdition_Vol17
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「元年者」がハワイ上陸1871年1868年「日布修好通商条約」締結「官約移民」がハワイ上陸1898年1885年1924年アメリカがハワイ併合「真珠湾攻撃」で太平洋戦争勃発「新移民法」日本の無条件降伏、終戦1941年1945年日本からの海外渡航自由化1964年「移民」「移民」でで見る見る●Profi le千葉県出身。高校卒業後はボストン大学のESLコースを経て、マサチューセッツ州立大学進学。2004年にハワイに移住し、シャミネード大学・大学院を修了。第2子の出産を機に、友人と共に日本語教室を開設・創業。教員免許状取得後、22年からモアナルア高等学校で日本語教師として活躍中。 アメリカの大学に進み、結婚や出産を経て、ハワイで日本語教室の運営に着手したトヨコ・オニールさん。現在はモアナルア高校(アメリカ合衆国・ハワイ州)で日本語教師として教鞭を執っています。 トヨコ・オニールさんに、これまでの人生ストーリーをおうかがいすると共に、現在のお仕事内容や日本語学習者に向けたメッセージを送っていただきました。The Shinro Shimbun Hawaii Edition日本語を学ぶ楽しさを日々生徒に伝えているトヨコ・オニールさん(前列右端)No.17, 2025[ Spring Special Issue ]■ハワイと日本を結ぶ歴史・移民史英語力向上のため、ボストン大学のESLコースで学んでいた当時のスナップ(●右から2人目)71年に「日布修好通商条約」が締結され日本とハワイは正式に国交を樹立した。その後、一時的に移民事業は中断されたが、85年には「日布労働移民条約」が締結され、両国間で定められた条件のもと政府が斡旋した「官約移民」がハワイへと渡った。住居と医療が整備されており、当時の日本の日払い労働者の賃金と比較して高額だったことから移民を希望する日本人は少なくなかっ―ハワイ移住後は、日本語教室の運営を行っていたとうかがいました。は、スクールカウン実セラーを志していました。そのためスクールカウンセラーの資格を取得する目的で、シャミネード大学・大学院(アメリカ合衆国・ハワイ州)に進みました。その後は、子どもに恵まれ、仕事とどのように両立していこうかと迷っている時期がありました。の頃に、ちょうど友そ人と一緒に小さい教室を借りて未就学児から大人までの日本語教室を始めることになりました。スクールカウンセラーとして働くことはかないまた。9年間で26回実施された官約移民の総数は男性が2万3,340人、女性が5,799人で、合計2万9,139人にも上った。98年にハワイ王国がアメリカに併合され、移民を取り巻く環境が変化した後も日本から多くの移民がハワイに入植した。サトウキビのほかにもコーヒーの生産に従事する者、契約労働を満了して都市部に移り住み商店を営む者など、日本人移民はハワイ現地でのせんでしたが、自分の子どもをそこに連れていけるため、仕事と子育てを両立していくことができました。―日本語教員を目指したきっかけを教えてください。本語教室を数年間運日営していくうちに、子どもも成長しました。かねて学校で働きたいという想いを抱いていたのと共に、時間の調整がしやすいこともあって、「サブスティチュートティチャー」を始めました。これは、教員が欠勤する際に呼ばれて代理で授業を行う代用教員のことです。この仕事に従事していくうちに、学校の先生も素敵だなと思い始めて、教員免許状を取得しました。教格とは全くの別物です。ちょうど新型コロナウイ員免許状は、スクールカウンセラーの資暮らしをより発展させていった。1924年には、「新移民法」により移民が禁止され、日本に帰国をするとハワイへの再訪がかなわなくなるという事態に直面したことから、日本人はハワイでの定住を意識し始めた。そうした中、80年前の1941年には、日本側の「真珠湾攻撃」を契機として太平洋戦争が勃発。民族間の亀裂が顕在化し、一部の日系人は拘束を受けるなど戦時中は厳しい状況に置かれたが、日系人志願兵による第442連隊の活躍もあルス感染症(COVID-19)の流行時に教員免許状を取得しました。その後、モアナルア高校で日本語の教員として勤務するようになり、現在は3年目になりました。―モアナルア高校では多くの生徒に日本語を教えています。ンゲージセンターなラどがあることでも分かる通り、モアナルア高校は、言語教育に力を入れています。ハワイ語、韓国語、中国語、日本語、スペイン語、ドイツ語、フランス語の7カ国語を学ぶことができます。第二言語を学ぶ「言語学」を専攻している生徒は1,000人以上と、多くの生徒が第二言語を学ぶことに意欲を示しています。現をサポートしています。私の担当は、日本語のカリキュラムのレベル2・3です。レベル1では、ひらがな・カタカナの読み書きが集中的に行われ、自己紹介ができるように目指します。ベル2になると、家レ族のことや住んでいる場所などを話せるように教えていきます。また動詞の活用について、動詞の最も基本の形である「する」のように辞書に載っている形の「辞書形」から「します」という形の「ます形」や「して」という形の「て形」に変えることができるようになることも大切です。ベル3になると、さレらに複雑なフォームを使って文章を組み立てることができるように指導していきます。日本語在日本語の教員は3人いて、手厚く生徒り、終戦後、日系人は次第に信頼を取り戻した。52年には「新移民国籍法」が制定され、日本人に帰化が許されるなどハワイにおける日系人の社会的環境は向上していった。64年の海外渡航自由化により、日本―ハワイ間での交流がさらに深まるようになった。こうした長い歴史を経は複雑ですが、レベル1・2ではなるべく楽しく学んでもらえるように心がけています。―ご自身の第二言語習得時の苦労の経験が、役立っているとうかがいました。本人ということもあ日り、正直英語にいまだに苦労している部分も少なくありません。しかし、ほかの言語を学ぶことの苦労が分かるからこそ、いま生徒に寄り添って日本語を教えることができていると思います。自身、英語によるコ私ミュニケーションが完璧かと言われると決してそうではありません。話題の内容により、完璧に理解できない時もありますが、その際は分かる単語を組み合わせて文章を理解しています。生徒にも、日本語の長文や話を聞いている際に、一つの単語の意味が分からないからといってそこで思考を止めてしまうのではなく、ほかの単語から文章を推測したり、組み合わせたりしながら理解していきましょうというように教えています。―日本語を学ぶハワイの若者に向けてメッセーた現在、日本とハワイは友好的な関係を築いている。ハワイと姉妹都市提携を結ぶ日本の都道府県・自治体は少なくなく、日本文化の浸透、日系人の活躍等、親密性の高さが垣間見える。日本留学を希望するハワイの若者には、両者の発展を牽引するグローバル人材となることを期待したい。ジをお願いします。日のアニメーションや漫画、音楽やアーティストなど、□自分の好き□から興味を広げて勉強をしていくのがベターだと思います。日本語を学び始めたものの、敬語や多くの文法ルールに戸惑ってあきらめてしまう生徒もいます。言語習得のゴールが遠すぎると途中で投げ出したくもなるでしょう。そのため、語学学習のポイントは、自分の興味ある分野から学びに入ること、また小さい目標を立てていくこと、この二点を意識することで、集中して取り組むことができると考えています。それが達成できたら、また次の少しレベルアップした目標を立てるというように進めていくと、ゴールが見えやすく、やる気も継続するのではないのでしょうか。アナルア高校では、モ3月28日に「ワールドランゲージフェスティバル」を開催予定です。さまざまな国の言語にふれることができる魅力的なイベントを実施予定です。興味がある人はぜひ遊びにきてください。本語学習を進めていく上で、まずは日本本語は非常に奥が深く、興味がわいて日1219世紀、砂糖産業が隆盛を極めていた当時のハワイ王国では、サトウキビ栽培のための労働力需要が高まっていた。また、ネイティブハワイアンの人口が減少していたことを踏まえて、外国からの移民を積極的に受け入れることを決定。日本からは1868年、153人の日本人が移民としてハワイの地を踏んだ。「元年者」と称されるその一団は□日系ハワイ人□のルーツと考えられている。―これまでのご経歴について教えてください。は千葉県で生まれま私した。父親の仕事の関係で、北海道の釧路市や札幌市に住んでいたこともあります。高校卒業後は、英語が話せるようになりたいと思い、アメリカに留学しました。が最初に進んだの私は、ボストン大学(アメリカ合衆国・マサチューセッツ州)のESLコースでした。そこで学んだ後にマサチューセッツ州立大学に進学しました。卒業後は、大学時代に知り合った友人と結婚し、ボストンからシアトルに移り、ハワイへと移住しました。日本とハワイ、友好の歴史トヨコ・オニールさん経験を活かし、生徒の気持ちに寄り添った日本語の学びを提供

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